私は発達障害を「治す」という言い方が好きではありません。ですが、それを最近までうまく言語化できませんでした。
が、先日、とあるページを読んで、やっと言語化できました。私は「治す」に「殺す」というニュアンスを感じているようです。
Ponteの発達障害支援のページを読んで
障害者就労移行支援事業所 Ponte <ぽんて>のウェブサイトに「発達障害支援」というページができました。
とても素晴らしい内容で気に入っているのですが、この記事の中で特に良いと思ったのは、最後の「6 適応のプロセス」の部分です。長めですが引用させていただくと、この部分ですね。
なぜかと言うと「周囲に合わせていく」という行為が、本人にとっては、
「わけの分からないことを押し付けられている」ということであり続けるからです。自分の感性に全くフィットしない行為なのですから。その違和感のある状態を本人が受け入れ続けるためにも、情緒の安定が大事なのです。
そうやって適応に成功すれば、本人にとって生きやすい環境が手に入るのです。
「周囲に合わせていくスキル」は、誤解を恐れずに言えば、小手先の技術です。
流行りの言葉で言えば「ライフハック」というもの。
繰り返しますが、自分を「改造」することはできない。
自分を変えるのではなくて、「生活術」「仕事術」をうまく使って乗り切ろう、という考え方です。
自分の根本的な部分には自信を持っていればいいと思うのです。「しょうがいないなあ、多数派の君たちに合わせてあげるよ」ぐらいに思っていればいいのです。
これは「発達障害を治す」とは根本的に違う思想だと感じます。
「発達障害を治す」とは
私も詳しくは知らないのですが、「発達障害を治す」とは「発達障害者を社会適応させる」という意味合いらしいです。
であれば、上記Ponteのページとニュアンスや思想が同じであってもおかしくないはず。ですが、少なくとも私は真逆の方向性と感じます。
それはなぜか。
「治す」という言葉からは、「定型発達者側が正しく、発達障害者側は間違っている。だから発達障害者を矯正し、定型発達者側に合わさせる」というニュアンスを感じます。(個人の感想です)
こんな考え方よりも、「仕方ないから合わせてあげる。これは処世術なんだ」と割り切ってスキルとして社会適応するほうが、よほど発達障害者個人個人を尊重しているように感じます。
私自身、「そのほうがトラブルを避けられ楽に生きられるから」と定型発達者に合わせる術を多数学びましたが、その結果、今の人生は生きていて非常に楽です。
プライドを捨てて周囲に合わせたほうが、いっそ楽。発達障害者の人生というのはそんなもんのようです。
医療の世界は自閉スペクトラム症への誤解で満ち溢れている
ここからは発達障害の中でも自閉スペクトラム症に限定した話をします。私はADHDのことはよく知らないので……。
自閉スペクトラム症の人たちがおそらくかなりの割合でお世話になっているであろう医療の世界。悲しいかな、そこには自閉スペクトラム症の人たちへの大きな誤解が溢れています。
代表的なものをあげると、自閉スペクトラム症の人たちは以下の能力が無いとされています。
- 想像力
- 共感力
- 察する能力
- 暗黙の了解
これらは全て誤解であって、我々自閉スペクトラム症者が異文化の存在であるという説明がしっくりくる理由でもあります。
上記の能力が「無い」と言われる理由を具体的にしましょう。
- 定型発達者から見て妥当な想像をしない
- 定型発達者に対して共感しない
- 定型発達者に対して察しない
- 定型発達者の暗黙の了解が通用しない
おわかりでしょうか。
「自閉スペクトラム症者に何らかの能力が無い」という論説は、「定型発達者が観察したとき、これらの能力が無いように見える」という意味でしかないのです。
これがあたかも自閉スペクトラム症者の能力欠損であるかのように言われるのです。
が、少なくとも私の13年の観察結果によると、自閉スペクトラム症者にも想像力があり、共感力があり、察する能力があり、暗黙の了解を理解する能力があります。
どういうことかというと、
- 「定型発達者から見た妥当な想像」にはならないかもしれないが、物事を想像する力があり、空想に耽ったり、不安や恐怖を抱いたりする
- 発達障害者同士であれば、共感できるケースには共感する
- 発達障害者に対しては、察する能力がよく働く
- 発達障害者同士の暗黙の了解がある
言っている意味が伝わるでしょうか?
想像の方向性が予想外なのは、独特の感性の表れだと思います。それが定型発達者から見た常識に合わないため、まともな想像力がないように見えてしまいますが、想像力自体は存在しています。だからこそ芸術やもの作りに才能を発揮する人もいるのです。
「共感」は共感できるからするもの。定型発達者が発達障害者に共感しないように、発達障害者が定型発達者に共感しないのも当然ですね。
見知らぬ発達障害者を見たとき、彼らがなんで困ったり怒ったりパニックを起こしたりしているのか、何となくわかることがありませんか? それが察する能力です。これも想像力と同じで、定型発達者から見た「妥当な察し方」をしないだけなのです。
発達障害者同士で集まって話したとき、言葉にはしていないのにいつの間にか前提となっていたことがありませんか? 職場や家庭でイヤな思いをしがち、照明が眩しい、騒音がうるさい、など。それが「暗黙の了解」です。この内容は定型発達者とは共通しないことが多いため、定型発達者には「暗黙の了解」が通じないと思われてしまうのです。こちらからすれば、定型発達者に我々の「暗黙の了解」が通じないんですけどね。
ちなみに、自閉スペクトラム症者が自閉スペクトラム症者に共感する件は研究結果としても存在しています。今からわずか6年前の新しい研究です。
ところで、ここで外国人を想像してみてください。外国人と「暗黙の了解」が通じにくいのは当然ですが、文化が極端に違うため想像の内容に驚くこともありますし、共感できないことも、察しにくいこともありますよね。
外国人は異文化の存在ですが、であるがゆえに、自閉スペクトラム症者と同じように独特の内容の想像をしたり、共感し合えなかったり、察し合えなかったり、暗黙の了解が通用しなかったりします。
自閉スペクトラム症者も同じで、定型発達者とは異文化の存在なのです。劣っているから能力が無いのではなく、異文化なので通じにくいのです。
このことを踏まえて考えると、オキシトシン製剤で定型発達者への共感性を得るという話も馬鹿馬鹿しく見えてきます。さらには「障害者」呼ばわりもおかしく思えてきますね。
もう一度「治す」の話に戻ると……
ここまでの話を踏まえて、発達障害を「治す」という言葉をもう一度考えてみましょう。
異文化の人を自分たちの文化に染め上げるのは、洗脳と言いませんか? 洗脳など、自我を保ったままではさせられません。人間性を破壊してまで自分たちの文化に適合させる……そんなニュアンスを私は「治す」という言葉から感じます。(個人の感想ですからね!)
それよりは、社会適応するための術を「ライフハック」「処世術」と割り切って伝授するだけのほうが、よほど個性や人間性を尊重しているように感じます。外国人に日本での暮らし方を教えるようなものです。
発達障害者は同じ国で生まれ育っても異文化というのがわかりづらいところなのでしょうが、事実そういう風に生まれてしまったのですから仕方ありません。
定型発達者と発達障害者の関係は優劣ではありません。持つ特徴が違うだけ、違う文化圏に属しているだけなので、お互いに歩み寄って尊重し合いたいものです。
まとめ
- 自閉スペクトラム症者は、定型発達者とは異文化の存在
- 自閉スペクトラム症者は、定型発達者と比べて劣ってはいない
- 発達障害を「治す」のではなく、「処世術」を身につけて楽に生きよう
発達障害だからって劣等感を抱く必要なんてないんですよ。できないことは他の人に任せ、できることを頑張ればいいのです。定型発達者だってそうやって生きているんですからね!