「信頼感」という謎の感覚をわかり始めた(気がする)

自閉スペクトラム症関連
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私には「人を信頼する」という感覚がよくわかりませんでした。少なくとも30歳ぐらいの頃までは「人を信頼する」ということがどういうことなのかわからず、信頼している人もいなければ、信頼している物事もありませんでした。自分自身も含めて、です。

が、今はなんとなく「信頼感」がわかってきた気がします。漠然とした表現で言うと「この人(物事)ならこの先ずっと大丈夫」というような感じなのですが、漠然としすぎていますね。なのでもう少し詳しく書いてみます。

白崎的「信頼感」の解釈

「信頼」は「信じて頼る」と書きますが、私が感じる「信頼感」は「この人は頼れる」と思う感覚よりも、

白崎
白崎

この人はほっといても自分でなんとかできるな

という感覚に近いです。「その人は苦境に立たされたとき、自分なりに立ち向かっていけるだろうな。こういう発想をする人だものな」と思うような感覚です。

自信に置き換えると

自分自身への信頼感(自信)に関して考えてみます。

私は物事の改善案や解決策を考えずにはいられない性分です。なので、自分が将来壁にぶつかっても、どうにかこうにか打開策を見つけるだろうと思います。その壁を越えるのに健康を著しく害するなら、「壁を越えるのではなく回り込む」「壁を壊す」などの何らかの別の方法を探すだろうと思います。

もちろん、自分がそうするだろうと思うのは「充分なエネルギーがあれば」という条件付きです。ですが、自分の過去を考えるに、その壁をどうしても越えたいのなら、どうにかしてそのエネルギーも生み出すだろうと思います。自力でどうにもならなければ人の手助けを借りるだろうし、アイディアも探すと思うのです。

そこまでやる気になれなかったとしたら、それは「私の人生において、私が自分自身でやり遂げる意義を感じていないこと」、つまり私の人生には必要のないことなのです。

(私がやろうとした物事の意義とは別です。私がやる必要がないだけで、誰かがそれをやることには意義があるかもしれません)

最近の私の「自分への信頼」(自信)は以上のような内容になっています。

信頼感は、勝手な思い込み

私にとって、信頼感とはそういう感じで、「この人の能力ならこのくらいのことは大丈夫」というような私の勝手な気持ちです。その人が実際にどうするかは、あまり関係がありません。「なんか大丈夫なんじゃないかなって気がする」というくらいの気持ちで、「あなたなら絶対にこうしてくれるでしょ!」という期待ではないと思うのです。

だから期待外れもなければ裏切られるということもないと思います。その人が私の思う通りにできなかったとしたら、私が何かしらを見誤ったのでしょう。その見誤ったものは、その人の能力というよりは、その人が抱えた苦境の重大さのほうなんじゃないかな、となんとなく思っています。

人に対する自分の判断を信じている

といっても私が「この人を信頼できる」と感じるにはかなり時間がかかります。1年や2年ではそこまでいかないことが大半です。

というのも、私には人の第一印象がほとんど感じ取れないのです。だいたいの場合において、私は初めて出会った人がどういう人かよくわかりません。

経歴やら話していた内容やら服装やらは覚えられると思うのですが、「優しそう」「信用できそう」みたいな感覚的な印象が私には非常に乏しいのです。

その代わりに私には人のイメージをデータベース的に作っていく性質があります。「〇〇そうな人」という簡易的なラベリングができないので、その人の思考の傾向や話題の傾向、好き嫌いの傾向、行動の傾向から少しずつ「こういう人」というデータベースを作っていきます。

そうしてできてきたイメージとその人の実際を見比べ、違っていたらまた修正し、データを集め、イメージを作り、見比べ……その繰り返しです。なので「誰々さんってどういう人?」と聞かれても私はうまく答えられないことが大半です。一言で言えるようなイメージは大抵存在していないからです。

人のイメージができづらいので、何をできそうな人かも、何をしてくれそうな人かも、よくわかりません。私は根本的に、人に期待は全くしない(できない)のです。何ができそうな人かわからないので、期待のしようがないのです。

その代わりに、「この人はこれができるんだな」と自分が思ったときには、その自分の判断を信じるようになったようです。自分の場合には、何かしらの根拠があって「できるんだな」と思っただろうからです。

逆もあって、「この人にこれはできないな」という自分の判断もかなり信じます。「思い違いで本当はできるのかもしれない」などとはほとんど思いません。

私には人のイメージがほとんど浮かばないので、何かイメージが浮かんだときにはだいたい根拠があります。その「根拠があって浮かんだイメージ」を私は信じるようになったようです。つまり、自分の判断を信じているようなのです。

今までの人生で何よりも喜ばしいことは、私が自分を信じられるようになったことです。私の人生の9割方の時間(約30年)、自信も自己肯定感もどこにもありませんでした。そのうちに「自分の判断がどうとか」と言わずに他人をすんなり信じられるようになるのかもしれませんが、先のことはわかりません。

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余談:昔「信頼を抱きたい」と書いていた

昔のブログ(削除済)に、私は「信頼を抱きたい」という記事を投稿していました。2012年8月8日のことだったそうです。せっかく発掘したので、掲載します。約7年前の文章ですね。

何度か記事に書いた記憶がありますが、私は心の中に人物像を作ることができません。それがどういうことかと言いますと、定型発達者が言う「第一印象」というものがありません。一見してこういう人という印象を掴むことができません。このことで、私は人間関係において大変な支障を感じています。何故かというと、周りの人間がどういう人かというイメージが全く持てないからなのです。

具体的には、友人、家族、支援者、とにかく周りの人々全てに対して何かアクションを起こした場合に、
・どう思われるかが想像できない。
・どう言われるかが想像できない。
・何をされるかが想像できない。
ということです。更に言うと、
・何が好きそうかわからない。
・何が嫌いそうかわからない。
ということにもなります。ただ、こういったことに対して「怖い」「不安」という気持ちはあまりありません。生まれたときからこれが普通だったので、「周りの人は皆どんな反応をするかわからない」という状態が当たり前なのです。

もちろん、こういった状態への自分なりの解決策はあります。それは、
1)その人の行動を逐一記憶する。
2)記憶を積み重ねてデータベースを作っていく。
3)データベースから、その人の行動を予測する。
という方法です。この方法で、付き合いが長くなればだんだん、私がアクションを起こしたときの相手の反応が予測できるようになってきます(付き合いが浅い相手だと無理です)。

なので、付き合いが最も長い家族に関しては、だいたいの反応予測はできますが、付き合いが浅かった時期(私が子供だったころ)は予測間違いをして逆に怒られたことなどもありました。そのときのエピソードを書きますと、小学生だった頃のある夜、寝つけなくて寂しくて母を起こしたら「疲れてるのに」と大変怒られたので、私は「母は夜起こすと怒る。なので、絶対に起こしてはいけない」と学び、中学生のある夜に工作をしていて手を怪我し結構な出血をしたときも「母を起こしてはならない」と思って起こしませんでした。ところが翌朝になってから母に「昨日の夜怪我しちゃった」と傷を見せたら「なんですぐ起こさなかったの?」と言われたので驚いたのです。その怪我は3針縫いました。

そういう状態が私にとっては常ですので、家族と比べて圧倒的に付き合いの浅い友人などは、反応の予測がほとんどできないと言っても過言ではありません。これがすなわち、「信用」「信頼」という気持ちを抱けないということに繋がるのだと思います。

とはいっても、私は家族に対しても「信頼」を抱いたことがなく、「信用する」「信頼する」ということがどういう感覚なのかが全くわかりません。家族とは付き合いが長いので、「こういう反応はするだろう」「こういった反応はしないだろう」という予測はできますが、それと「信用」や「信頼」は全然違うと思うのです。友人に至っては何が好きそうで何が嫌いそうかもほとんどわからないし、何を言ったらどんな反応をしそうかもほとんどわからないので、先方にも「信頼されていない」と思われるようです。

ですが私はできることなら誰かを信頼したいと思っています。どうやったら信頼ということが身につくのかを知りたいです。信頼するということがどういうことかわからないので、難しいだろうと自分でも思いますが、人生が終わる前に一度でも誰かを信頼することができたらいいなと思っています。

私が過去に書いた記事「信頼を抱きたい」

今(2019年)は、信頼できるなと感じる人が身近に数人います。人生はわからないものですね。

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