この記事は以前noteに書いた記事のリライトです。
障害者なり高齢者なり難病者なりの「支援」には人それぞれの思い入れがあります。支援をする側の思いとして私が知っているのは、以下のような例です。
「支援」が蛇口をひねったら水が出てくるくらい当たり前のものになってほしい。
支援をしている相手に、「あなたの支援は必要なくなりました」と卒業していってほしい!
私は普段、支援を受ける側ですが、その立場からも「支援」に関する理想があります。その話をしたいと思います。
支援を受ける側として思う「支援」の理想
私は何らかの支援が無ければ社会生活を送ることが難しいのが実情です。
発達障害に相当に詳しい人に適切な訓練をしてもらうことで、支援から卒業できる可能性はあるのかもしれませんが、そのような人の心当たりが地元にはありません。
そして地元で受けられる範囲の支援では、私が支援を卒業できるようなスキルを身につけられるとは思えません。
自分なりの工夫をするとしても、生活スキルを上げていくには年単位、あるいは十年単位が必要だと思います。約36年自分なりに生きた程度では、自力で人並みの暮らしは送れないのです。
そういう私にも「支援」のあり方への理想があります。それは「支援」という概念が存在しなくなることです。
身近な困難を例に「支援」を考える
年を取れば誰でもなりうる「老眼」や「難聴」、あるいは若かろうともなりうる「近視」などを例に考えようと思います。
- 老眼の人のために、室内を明るめにする
- 老眼の人のために、書類の文字を大きめにする
- 難聴の人に、声をかけるとき大きめの声にする
- 近視の人に、遠くのものを口頭で説明する
以上のような「支援」経験を持つ人は多いのではないかと思います。
それを「支援」だと思いますか?
私の勝手な想像では、これは気配りの範疇、もしくは「お手伝い」程度ではないかと思います。
「支援」の概念がなくなってほしいとは、そういうことです。「支援」という特別に重たい負担ではなく、個々のニーズに対する「気配り」「お手伝い」にならないかということです。
「支援」の中には優劣関係が潜んでいる
障害者支援には特別な知識や経験が確かに必要です。それは高齢者や難病者の介護などでも同様ですね。気配りで済まされる問題とは思っていない人も数多いと思います。それが今の社会ではやむを得ないことだと思います。
ですが、遠い将来、私はもう生きていない頃にでも、人それぞれの個別のケースに配慮することが当たり前となり、「支援」という特別扱いがなくなってほしいと思っています。
支援を受けなければ社会生活が難しい私の立場からすると、「支援」はありがたいものであるのと同時に、「優秀な人が劣った人に提供するもの」という感覚があります。自分が「人に手助けされなければ生活がままならない『人未満』の存在」のような気がしてきます。
障害者を見て特性だ支援だと騒ぎ立てる社会にも嫌気が差します。まるで珍獣扱いされている気分になるのです。「障害者が暮らしやすい環境を特別に整えること」と「動物園で動物一種ごとに檻を作って世話をすること」が似たようなものに思えてしまいます。
私の劣等感が強いせいで極端な考えを抱いているのかもしれませんが、今の社会の障害者の扱いには居心地の悪さを感じます。
受けたい配慮はどんな人にもあるはず
老眼や難聴や障害のような目立った特徴でなくとも、「このような配慮を受けたい」と希望することは人それぞれあるはずです。日常的な内容だと、例えばこのような内容です。
- 何時以降は電話連絡を控えてほしい
- メールの返信は3日以内にほしい
- 何曜日は予定を入れないでほしい
- 近所のスーパーで特売があったら必ず教えてほしい
人と人との関係には配慮してほしいことが互いにあるのが当たり前だと思います。互いに配慮し合う一環として、障害への配慮もそこに含まれるようにならないものか、と思うのです。
つまりは「障害者」が特別なものではなく、日常のあちこちに存在する当たり前の存在にならないか、と思っているのです。
「支援をする」「される」の一方的な関係
「支援」は一方通行なのではないかと私は思います。「一方的にお世話してあげる」と「一方的にお世話してもらう」では人間関係は成り立っていないと感じます。そこにお礼を言う・言わないではなく、支援する側・される側と常に決まってしまうことが問題だと感じるのです。
人間関係はギブアンドテイクとよく言いますが、一方的にお世話すればギブオンリー、一方的にお世話されればテイクオンリーです。職業として支援する人と、支援サービスを利用する人との関係ならそれでいいかもしれませんが、社会生活がそうなってしまうのは望ましくないと感じます。
- 自分でできることは自分でする
- 自分にできる手伝いはする
- 手伝ってほしいことがあったら求める
- 求められたことで、手伝えることは手伝う
- 自分にできないことは、他の誰かに任せる
支援をする側だった人にも、される側だった人にも、こういったお互いの手助けという発想が必要だと感じるのです。
障害があるからといって、できないことばかりではありません。支援者だからって、何でもできるわけではないですね。全てを頼る必要はないはずですし、全てをしてあげる必要もないはずです。互いに自分のできることをする世の中になってほしい、それが当たり前になってほしいと私は思っています。
まとめ
- 「支援」は特別扱いで、対等でない。人間関係として成り立たない。
- 誰にでも配慮してほしいことはあるはず。個々のニーズに互いに配慮するのが当たり前になってほしい。
- 支援する側、される側という一方通行ではなく、互いにできることをし合う世の中が理想。
障害があること、多数派でないこと(少数派であること)が特別なことじゃなくなって、「誰もがみんな少しずつ違う」「誰しもできること・できないことが違う」という認識が当たり前のものになればいいのに、と強く思います。
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